LOGIN王都から戻って一週間が経った。
ルシェムの作業場の改造は、ハンスとマリオを中心に順調に進んでいた。長屋の隣の空き家は、思っていたより造りがしっかりしていて、改造に必要な手間も予算も予定より少なくて済んだ。
石鹸の生産ラインを置く部屋、薬草の乾燥と仕分けをする部屋、そして消毒液の蒸留器を据え付ける部屋。三つの作業区画を、薄い板で仕切る形にした。換気のために高い位置に小窓を増設し、水回りも改修した。完成までにあと十日ほど。
その十日の間に、エリナはもう一つ大事なことを進めなければならなかった。 現場責任者の候補を、決める。「候補は、こんな感じだ」
マリオが長屋の事務室で、紙を一枚広げた。
炭で大きく書かれた名前が、三つ。マグダ・トーラン(ヴァロウ町)
ジルカ・ベッセル(キーシュ町) オーリック・モア(トレネ町)「全員、ルシェムで石鹸を使ってくれてる人と繋がりがあって、向こうの町でもそれなりに顔が広い。字も読めるし、計算もまあ何とかなる」
「人柄は?」 「マグダは肝っ玉母ちゃん。子持ちで、ヴァロウの女衆の中心にいる」マリオが指で名前を叩く。
「ジルカは、男だけど物腰が柔らかい。キーシュの宿屋の次男で、家業と別に何かやりたがってる」
「もう一人は?」 「オーリックは、トレネで小さい雑貨屋を一人でやってる老人だ。年は六十過ぎ。ちょっと頑固」エリナは三つの名前を、じっと見た。
「三人とも、人物像が違うね」
「だろ。お前が言ってた『町の事情によって合う合わないがある』ってやつだろ? だから幅を持たせて候補を出した」 「いい判断」 「俺の判断っていうか、ゴードンさんに意見もらった」 「ちゃんと相談したのが、いい判断」 「言い方」マリオが頬を膨らませて、エリナは小さく笑った。
「順番は?」
「近い順だと、ヴァロウ、トレネ、キーシュ。馬車で順に回れば、三日でひと回りできる」 「じゃあ、明日出発」 「早いな」 「鉄は熱いうちに」 「またそれ」 「便利な言葉だから」マリオが首を振りながら、明日の支度に取り掛かった。
翌朝。
まだ朝霧が残る時間に、エリナとマリオとゴードンの三人は馬車に乗り込んだ。 ルナは留守番。母のセレーナと一緒に、作業場の改造の進み具合を見ておいてくれる。ルナが頷くとき、いつもより少しだけ早かった気がした。任されることを、彼女なりに受け止めているのだろう。 馬車は街道を北上し、半日ほどでヴァロウに着いた。ヴァロウ町
ヴァロウは、ルシェムよりひと回り小さな町だった。 石造りの家が少なく、木造の家が多い。中央には農産物を売る広場があり、その周りに肉屋、パン屋、雑貨屋が並ぶ。住民の多くは近隣の農地で働く人たちで、町全体に土と汗の匂いがあった。マグダ・トーランの家は、広場の北側にあった。
二階建ての小さな家。一階の窓から、もうもうと湯気が立ち昇っている。洗濯か、夕食の仕込みか、あるいはその両方か。
扉をノックすると、中から大きな声が返ってきた。「入りな! 手が離せないから、勝手に入ってきな!」
マリオが先に扉を開けた。
台所からは、四十代半ばと思しき女性が、両手で大きな鍋をかき回しながら振り返った。背が高く、肩幅が広い。エプロンの裾がところどころ焦げている。子どもが二人、足元で何かの遊びをしていた。マグダの目が、エリナを見た。
一瞬、固まる。「……あんたが、噂のエリナちゃんかい?」
「はい」 「思ったよりちっこいねぇ!」マグダはガハハと笑った。声が大きい。
「ごめんね、こんな散らかってる時に。すぐ片付けるから、その辺座ってな」
「お構いなく」 「いやいや、客は座らせるもんだよ」マグダは手早く子どもたちを部屋の隅へ追いやり、テーブルの上の食器を片付けた。椅子を三脚並べ、湯気の立つお茶を出した。
「で?」
マグダが向かいに座った。
「マルタから話は聞いてるよ。あの石鹸を、ヴァロウでも本格的に売りたいんだろ?」
「はい」 「で、誰かが現場で取り仕切る必要があると」 「そうです」 「あたしを名指しで来たのは、マルタの紹介かい?」 「マリオが推薦してくれて、その後にマルタさんにも確認しました」 「マリオから?」マグダがマリオを見た。マリオが少し頭を掻いた。
「前にうちの肉屋に来た時、マグダさんが他の人に石鹸の使い方を教えてるのを見て……」
「ああ、あの時の坊主かい」 「坊主って」 「坊主だろ、まだ。あんたも七つやそこらだろ」 「八つ」 「同じだよ」マグダがケラケラ笑った。
エリナは、その笑い方を観察しながら考えていた。 周囲が明るくなるタイプ。 マグダがいる場には、自然と人が集まりそうだ。それは、現場責任者として大きな武器になる。「具体的に何やってほしいのか、聞かせな」
お茶を一口飲んで、マグダが切り出した。
「ヴァロウに、月に何度か石鹸と薬草薬を届けます。それを、ヴァロウの中で売る場所を整え、使い方を町の人に教え、売上と在庫を記録してほしい」
「字は書けるよ、一応」 「計算も?」 「足し算引き算くらいならね。掛け算は怪しい」 「掛け算は、こっちで仕組みを用意します。マグダさんがやるのは、数を数えて記録すること」 「ふん、なるほど」マグダがしばらく考え込むようにテーブルを見た。
「報酬は?」
「売上の一割を、現場経費として」 「悪くないね」 「ただし、責任もあります。使い方を間違えて誰かを傷つけたら、こちらにも責任が及ぶ。だから、町の人に教える時の説明は、こちらが用意した手順に沿ってもらいたい」 「マニュアル通りにってことかい?」 「そう」 「あたしは、それでいい」マグダがあっさり頷いた。
「自分流より、ちゃんとしたやり方で教えた方が、後々楽だ」
「即決ですか」 「あんたを見て、即決した」 「私を見て?」 「七つやそこらの子が、王宮まで行って戻ってきた話を、もうこの辺じゃみんな知ってるんだよ」マグダが少し声を低くした。
「そんな子が、ヴァロウみたいな田舎町にわざわざ足を運んできた。それだけで、十分信頼するに値する」
エリナは少しだけ、視線を落とした。
噂が、思っていたより早く広がっている。 いいことでもあり、危ういことでもある。 でも、今は素直に受け取った。「ありがとうございます」
「お礼はまだ早いよ。やってから言いな」マグダがまた、ガハハと笑った。
トレネ町
ヴァロウから半日。街道沿いのトレネに着いた頃には、すっかり日が傾いていた。 トレネはヴァロウと違って、街道沿いの宿場町だった。馬車の往来が多く、夜になっても人の気配が消えない。宿屋と食堂、それから旅商人向けの雑貨屋が立ち並んでいる。オーリック・モアの店は、町の中心からは少し外れた路地にあった。
看板はかすれていて、何の店かもひと目ではわからない。木の扉を押すと、ぎいっと重い音を立てて開いた。
中には、薄暗い灯りの下、雑多な品物が所狭しと並んでいた。陶器、紐、蝋燭、古い金具、布。一見、何もかも雑然と置かれているように見えるが、よく見ると、種類ごとにきちんと分類されている。 店の奥に、白髪の老人が一人、帳簿を広げていた。「……何の用だ」
顔も上げずに、低い声が言った。
「初めまして」
エリナが声をかけた。
「アッシュフォード商会の——」
「アッシュフォード?」老人がそこで顔を上げた。
眼鏡の奥の目が、鋭くエリナを見た。「……ふん」
「ご存じですか」 「噂程度には」オーリックが、ぱたんと帳簿を閉じた。
「子どもが来るとは聞いていたが、本当に子どもだったか」
「はい」 「親はいないのか?」 「母は、ルシェムにおります」 「父は?」 「亡くなりました」オーリックの目が、ほんのわずかに動いた。
哀れみではない。何かを察した目だった。「……まあ、座れ」
オーリックが、店の奥に粗末な椅子を二脚示した。
エリナとマリオが座った。ゴードンは外で馬の世話をしている。「で、用件は?」
エリナは、ヴァロウでマグダに話したのとほぼ同じ内容を、もう一度説明した。
オーリックは、最初から最後まで黙って聞いていた。 話が終わると、しばらく腕を組んで天井を見ていた。「条件は悪くない」
ようやく口を開いた。
「だが、わしには合わん」
エリナの背筋が、少しだけ伸びた。
「理由を、お聞きしても?」
「わしは、もう年だ。店を維持するだけで精一杯だ。新しい商品の責任者をやる体力はない」 「なるほど」 「だが——、適任者なら、紹介できる」 「適任者?」 「わしの息子の嫁の妹が、この町で薬草摘みをしている。シェナという。今は薬屋の手伝いだが、薬草の知識はわしより詳しい」 「年齢は?」 「二十二、三だったか。読み書きはできる。計算もそこそこ」 「お会いできますか」 「明日の朝、ここに呼んでおく」即決だった。
マリオが横で目を丸くしている。「ご紹介、ありがとうございます」
エリナが頭を下げた。
「でも、なぜそこまでしてくださるんですか?」
オーリックが、片眉を少し上げた。
「あんた、わしが何のために店をやっとると思う?」
「商売、ですよね」 「金儲けじゃない。もう食うには困っとらん。それでも店を続けてるのは、町の人間が困らんようにするためだ。蝋燭が切れた、紐が必要だ、そういう時に走り込める場所が、この町には必要だからな」 「……」 「あんたのやってることは、その延長だ」オーリックが目を細めた。
「石鹸で病気が減る、薬草で傷が治る。それが広がるのは、町にとっていいことだ。わしが直接関われんでも、繋ぐくらいはできる」
エリナは深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼は、シェナを見てから言え。あれが向いてるかどうかは、あんたが判断することだ」頑固な老人。でも、頑固さの方向が、エリナたちと同じ向きだった。
翌朝、店の前で待っていたのは、痩せた女性だった。
長い髪を後ろで一つに束ね、簡素な布の服を着ている。手の甲には、何度も薬草を扱った人特有の、緑色のうっすらとした染みがあった。
「シェナです」
声は静かで、だがしっかりしていた。
エリナは、彼女と一時間ほど話した。薬草の知識を尋ねれば、ルナと変わらない正確さで答えが返ってきた。計算問題を出せば、迷わず正解を導いた。「町の人にどう薬草の使い方を説明するか」と聞けば、相手の年齢や性別によって言葉を変える例まで挙げてくれた。
向いている。
話していて、確信した。
最後に、エリナは一つだけ聞いた。「クロヴェル侯爵から、もしこの仕事を辞めるよう圧力がかかったら、どうしますか?」
シェナの目が、少し見開かれた。
「……そんな話まで、あるんですか」
「ある可能性は、ゼロではないです」シェナはしばらく考え込んでから、ゆっくりと言った。
「私はこの町で生まれて、この町で育ちました。町の人が病気で苦しむのを、何度も見ました」
「……」 「貴族様が誰であろうと、町の人が助かるなら、私はやります」即答ではなかった。
でも、考えてから出された答えには、即答以上の重みがあった。
エリナは、深く頷いた。「お願いします」
キーシュ町
最後の町、キーシュは、ベルナのさらに南にあった。 漁港に近い町で、海の匂いが街道まで届いていた。 ジルカ・ベッセルの家は、町の宿屋の隣にある。彼の家業は宿屋だが、本人は次男で、店を継ぐ立場ではない。 迎えに出てきたジルカは、二十代後半の細身の男だった。物腰が柔らかく、最初の挨拶の時から、ふっと相手の警戒を解くような微笑を浮かべる。「いらっしゃい。お話、伺ってます」
声がよく通る。低すぎず、高すぎず、聞き取りやすい音域だった。
応接間に通され、エリナは三度目の説明を始めた。 ジルカは熱心に聞いた。途中で何度かメモを取った。ヴァロウのマグダのような豪快さも、トレネのオーリックのような頑固さもない。だが、別の何かがあった。 話が一段落したところで、ジルカが言った。「正直に申し上げますと——」
彼の口調が、わずかに改まった。
「私、この話を聞いた時に、二つのことを考えました」
「聞かせてください」 「一つは、町の役に立てるなら是非やりたい、ということ」 「もう一つは?」 「実家の宿屋から、ちゃんと独立できるかもしれない、ということです」エリナは少し首を傾げた。
「独立、ですか」
「私は次男なので、いずれ家を出る必要があります。でも、特に手に職があるわけではない」ジルカが少し苦笑した。
「この仕事は、私にとって、独立の足場になり得ます。だから、町のためというより、自分のためにやりたい、という気持ちが半分あります」
その正直さに、エリナは少しだけ意表をつかれた。
マリオが横でじっと聞いている。「……正直に言ってくれて、ありがとうございます」
「いえ、嘘をついて始めても、後で歪みが出ますから」 「同感です」エリナは少し考えてから、続けた。
「ジルカさん」
「はい」 「『町のため』と『自分のため』が一致している人の方が、私は信頼します」 「……と、言いますと」 「町のためだけ、と言う人は、いずれ疲弊します。自分のためだけ、と言う人は、いずれ町を裏切ります。両方ある人だけが、長く続けられます」ジルカが、少し驚いた顔をした。
それから、ゆっくりと微笑んだ。「……あなたの噂、本当だったんですね」
「噂、ですか」 「『七つの子どもとは思えない』という噂です」 「八つになりました」とマリオが反応する。
「失礼しました」エリナが謝罪する。
ジルカが声を立てて笑った。
その笑い方には、媚びがなかった。本当に面白いから笑う、というシンプルな笑い方だった。「条件は、お受けします。ただし、一つだけお願いがあります」
「なんでしょう」 「最初の三ヶ月は、報酬を通常の半額にしてください」マリオが思わず横から口を挟んだ。
「半額?」
「はい。まだ私は実績がありません。半分の報酬で結果を出してから、通常額に戻してもらえれば、こちらも自信を持てますし、商会側も損をしません」エリナは、しばらくジルカを見つめた。
自分から条件を厳しくしてくる人間は、信頼できる。 前世でもよく見たパターンだった。「わかりました。三ヶ月後に、お互いの実績と感触で見直しましょう」
「はい」二人は、テーブル越しに軽く手を合わせた。
握手というほど大袈裟ではない、軽い触れ合い。 でもそれが、契約の合図になった。 三つの町を回り終え、馬車はルシェムへの帰路についた。 夕方の街道。傾く太陽が、馬車の影を長く伸ばしていた。「結果、三人決まったな」
マリオが、御者台から振り返った。
「ヴァロウのマグダ、トレネのシェナ、キーシュのジルカ」
「三人とも、タイプが全然違う」 「だから、いい」 「いい?」 「同じタイプばかり集めても、組織は強くならない。マグダは人の輪を作るのが上手い。シェナは薬草の専門家として深く知ってる。ジルカは話術と独立心がある。三人合わせて、初めて一つの形になる」 「お前、なんでそんなこと知ってんの?」 「考えれば、わかること」 「考えても、俺はそこまで行かない」 「マリオは、別のところで考えてる」 「別のところ?」 「『この人と一緒にいたら、楽しいかどうか』」マリオが、ぐっと言葉に詰まった。
「……それ、悪い意味?」
「いい意味」エリナがあっさり答えた。
「私が見落とすところを、マリオは最初に見抜く。マグダもジルカも、マリオが推薦してくれなかったら、私だけでは候補にも入らなかった」
「……そうか」マリオは少し照れたように頭を掻いて、前を向き直した。
ゴードンが横でくすりと笑った。「いい組み合わせですよ、お二人は」
「俺たちが?」 「ええ。バランスが取れている」馬車が、街道の小さな丘を越えた。
遠くにルシェムの町並みが見え始めた。 また、輪が一回り大きくなった。エリナは、頭の中で組織図を描き直した。
中央にアッシュフォード商会の本拠地——ルシェム。
その周りに、ヴァロウ、トレネ、キーシュ、ベルナ。 そして遠く、王都に、フィオナとレイン。 ベルナにはロッソ商会との取引網。 学院にはレインを通じた連携。 王宮には、薄いながらも国王とアルバとの線。一年前には、長屋の台所に石鹸の型を一つ並べていただけだった。
それが、今、こんなにも広がっている。まだ、足りない。
でも、確実に、進んでいる。ルシェムに着いた頃、空はすっかり暗くなっていた。
長屋の前で、ルナが小さなランプを持って待っていた。 馬車を見つけると、彼女は無言で手を一度だけ振った。 いつもの、無口な歓迎。「ただいま」
エリナが馬車から降りて、ルナの隣に立った。
「……うん」
「変わったことは?」 「ない」 「そう」 「猫が、一匹、増えた」 「そう」他愛もない報告。
でも、その他愛もない報告が、王宮から戻った夜と同じくらい、エリナの胸を温めた。 ここが、自分の場所。 どんなに輪が広がっても、戻ってくる場所は、ここで変わらない。 その日の夜、エリナは机に向かい、また一通の手紙を書いた。 宛先は、フィオナ。『新しい仲間が三人増えた。タイプが全然違う三人。すぐに紹介する。』
書き終えて、ペンを置いた。
窓の外、夜風が少しだけ強くなっていた。 ランプの火が揺れた。 一年の戦いは、また一歩、前へ進んだ。流通が止まってから五日が経った。 その五日間、アッシュフォード商会は止まらなかった。 迂回路を使い、猟師のベルトが週三回荷物を運んだ。量は減ったが、ヴァロウとトレネへの供給は続いた。マグダが現地で在庫を管理し、シェナが薬草薬の一部を現地調合で補った。キーシュのジルカは海沿いの別ルートを一本確保して、南方面への影響をほぼゼロに抑えた。 ゴードンは毎日、王宮への定期報告書に一行だけ追記した。 「流通の一時的な制限により、供給量が通常比七割となっております。代替手段により、医療的効果を持つ商品については継続供給中」 七割という数字を、正確に記録した。 困っているとも、誰かを責めるとも書かなかった。 ただ、事実を、正確に。 「これが大事なんですか」 マリオが横で帳簿を眺めながら聞いた。 「王宮への記録に残す、ということが?」「そうです。供給が減った理由を書かずに数字だけ書いていれば、誰かが後で見た時に『なぜ減ったか』を調べることになる。調べれば、流通の停止が見えてくる」「じゃあ、クロヴェルが止めたって、わかる?」「わかる人間には、わかります」 マリオがそれを聞いて、少しだけ顔を明るくした。 「賢いな」「エリナさんの方針です。直接告発するのではなく、数字で語る」 五日目の夕方、フィオナから手紙が届いた。 いつもより分厚かった。 エリナへ 動いた。結果から書く。 明日の午前、橋の検問が解除される見込み。理由は「書類確認が完了した」という公式発表になる予定。 裏で何があったか。 アルバ殿下が、地方道路管理局に対して「王宮からの商業視察対象商会の荷物について、優先的に通行を確保するよう」という非公式の通達を出した。命令ではなく、「配慮のお願い」という形。これで局長は「殿下の意向に従った」という体裁が立つ。 同時に、私がゴードンさんから教えてもらった情報を使って、局長の周辺にいる
物流への介入が現実になったのは、ダリウスの再訪から十日後のことだった。 朝、ヴァロウのマグダから急ぎの使いが来た。 馬に乗った若い男が、泥だらけの顔で長屋の前に現れた。マグダの息子だと言った。 「母から言付けです。今朝、荷物が届きませんでした。街道の検問が増えていて、商人の馬車が軒並み足止めを食っています」 エリナは表情を変えなかった。 「街道のどのあたりですか」「ルシェムとヴァロウの間の、橋の手前です。王都の役人が来て、通行証の確認をしていると」「通行証は、出ているはずです」「出ているのに、書類の不備があると言われて、通してもらえないと業者の人が」 書類の不備。 エリナは、頭の中でその言葉を一度だけ転がした。 不備の内容を確認しなければ、対処のしようがない。でも、不備の内容が何であれ、今日の荷物は止まっている。 「わかりました。お母様に伝えてください。今日の荷物は遅れます。代替の手段を考えます」「はい」 男が馬を返した。 エリナはゴードンを呼んだ。「予想より早かったですね」 ゴードンが、地図を広げながら言った。 「ルシェムとヴァロウの間の橋は、街道の要所です。ここを押さえれば、北方向への荷物はすべて影響を受ける」「ベルナへの荷物は?」「ベルナは南です。今のところ影響はないはずですが、いつ同じことが起きるかはわかりません」 エリナは地図を見た。 橋の位置、街道の分岐、各町への距離。 ルシェムを中心として、北と南に街道が伸びている。北がヴァロウとトレネ方面、南がベルナとキーシュ方面。 「北側の迂回路は?」「一本あります。ただし、山間の道なので時間が倍以上かかる。馬車では厳しい道です」「荷物の量を減らして、ロバか人力で運ぶことはできますか」「試みることは可能です。ただ、石鹸は重い。薬草薬は繊細で、運
ダリウス・クロヴェルが再びルシェムに来たのは、作業場の油の痕が発見されてから二週間後のことだった。 今回は、予告があった。 前日の夕方、丁寧な文字で書かれた短い手紙が届いた。 『明日の午前、改めてお話の機会をいただけますか。前回は突然の訪問をお許しください。今回は正式にお時間を頂戴したく。ダリウス・クロヴェル』 エリナはその手紙を三度読んだ。 前回より、文体が少し違う。「正式に」という言葉と、「前回は突然」という謝罪。どちらも、前回にはなかった言葉だ。 「来ていいか聞いてくる前に、来ることを決めてる」 フィオナへの手紙の下書きにそう書いて、それから消した。 余計な観察を文章にしても仕方ない。 返事は短く書いた。 『明日の午前十時、ルシェムの市場近くにある宿の一室をお借りします。そちらにお越しください。アッシュフォード商会 エリナ』 ゴードンに見せると、「場所の選び方が良い」と言われた。 「長屋ではなく、公共の場に近い宿を選んだのは?」「母のいる場所に通すのは、リスクがある。宿なら、第三者の目がある。それが双方にとっての抑止になる」「正解です」 ゴードンが静かに頷いた。 翌朝、エリナはいつもより少しだけ丁寧に身支度をした。 服は、王都に行った時と同じ一張羅だ。古い生地だが、縫い目はセレーナの仕事なので完璧だ。髪を後ろで一つにまとめ、革靴を磨いた。 鏡代わりの水盤に顔を映して、確認した。 七歳の子どもの顔だ。 それは変えようがない。でも、その顔に気圧されない目をしていれば、それで足りる。 宿に着くと、ゴードンが先に来ていた。部屋の隅に椅子を一脚余分に置き、テーブルの上を整えていた。 「フィオナさんから、昨夜遅くに手紙が届きました」 ゴードンが封筒を差し出した。 「ダリウスの件についてですか」「そうだと思います」 エリナ
レインからの返事は、手紙ではなく本人が持ってきた。 手紙を出してから十日後の朝、エリナが作業場で石鹸の型を確認していると、マリオが戸口から顔を出した。 「来てるぞ」「誰が?」「誰がって、一人しかいないだろそういう顔の時」「どういう顔」「なんか、急に背筋が伸びる顔」 エリナは手を止めた。 「何を言っているの」「俺もよくわからん」 マリオがにやにやしながら引っ込んだ。 エリナは道具を置いて、石灰の粉を手ぬぐいで拭いながら外に出た。 長屋の前に、レインが立っていた。 旅装束。革鞄。よく見ると、鞄が前より少し大きくなっている。中身が増えたのだろう。顔は変わらない。無表情で、でもどこか目だけが少し鋭い。 「来た」「来た」 お互いに同じ言葉を言った。 少し間があって、エリナが続けた。 「手紙じゃなくて、本人が来たの」「その方が早い、と判断した」「学院の用件も兼ねて?」「そうだ。ルシェム周辺の衛生改善の実地調査、という名目で外出許可が下りた」「名目、と言った」「名目だけが理由ではないからだ」 エリナは少しだけ、顔の筋肉が緩むのを感じた。 表情には出さなかった。出すつもりもなかった。 でも、来てくれたのは、素直に良かった。 午前中は、エリナがレインを作業場に案内した。 改造を終えたばかりの三部屋を、順番に見せた。石鹸の生産部屋、薬草の処理部屋、消毒液の蒸留部屋。ルナが蒸留の作業をしていて、レインが近づくと猫が一匹足元に寄ってきた。 「動物に好かれるのか」レインがルナに言った。「……なつかれやすい」ルナが短く答えた。 「魔法の影響か?」「わからない。でも、昔から」 レインが、棚に並んだ薬草の瓶をひとつ手に取った。ラベ
フィオナからの最初の手紙が届いたのは、三人の現場責任者を決めてから五日後のことだった。 朝の市場から戻ったマリオが、馬革の封筒を持って駆け込んできた。 「王都から来てる。フィオナさんからだ」 エリナは薬草の仕分け作業をしていた手を止め、封筒を受け取った。 封蝋には、小さなクロスベルの家紋の代わりに、フィオナが即興で作ったらしい印——葉っぱの形をした押し型——が押してあった。 開けると、二枚の紙が出てきた。 一枚目は、ルシェムへの報告。簡潔な文体で、王都の空気の変化が箇条書きにまとめられていた。 二枚目は、全然違う文体だった。 エリナへ 王都は、思っていたより動きが早い。 あなたが国王陛下に謁見した話は、翌日には宮廷の半分に広まっていた。反応は大きく二つ。「面白い」か「危険だ」か。中間がほとんどいない。 クロヴェル派の動きを追っている。具体的な妨害はまだ出ていないが、水面下で根回しをしている気配がある。特に、商人ギルドの幹部数名と、魔法省の中堅どころが接触を繰り返しているのが気になる。 一方で、実務派の魔法師たちの間では「アッシュフォード商会の成果を無視するのは損だ」という声が少しずつ出始めている。レインの師匠が動いてくれているらしい。 あと、ダリウスが最近、宮廷でやや孤立しているという噂がある。父親との間で何かあったのかもしれない。確認中。 それと——あなたが「事務室が少し広く感じる」と書いてくれたの、正直言うと少し嬉しかった。毒舌参謀として言わせてもらうと、あなたはもう少し素直に寂しいと言える人間になった方がいいと思う。次の手紙には、数字だけじゃなくて、もっと変なことを書いてちょうだい。 ――フィオナ・クロスベル―― 追伸:レインへの手紙に『今日も雨が降った』と書いたでしょう。彼、それについて何か言ってた? エリナは手紙を読み終えて
王都から戻って一週間が経った。 ルシェムの作業場の改造は、ハンスとマリオを中心に順調に進んでいた。長屋の隣の空き家は、思っていたより造りがしっかりしていて、改造に必要な手間も予算も予定より少なくて済んだ。 石鹸の生産ラインを置く部屋、薬草の乾燥と仕分けをする部屋、そして消毒液の蒸留器を据え付ける部屋。三つの作業区画を、薄い板で仕切る形にした。換気のために高い位置に小窓を増設し、水回りも改修した。 完成までにあと十日ほど。 その十日の間に、エリナはもう一つ大事なことを進めなければならなかった。 現場責任者の候補を、決める。「候補は、こんな感じだ」 マリオが長屋の事務室で、紙を一枚広げた。 炭で大きく書かれた名前が、三つ。 マグダ・トーラン(ヴァロウ町) ジルカ・ベッセル(キーシュ町) オーリック・モア(トレネ町)「全員、ルシェムで石鹸を使ってくれてる人と繋がりがあって、向こうの町でもそれなりに顔が広い。字も読めるし、計算もまあ何とかなる」「人柄は?」「マグダは肝っ玉母ちゃん。子持ちで、ヴァロウの女衆の中心にいる」 マリオが指で名前を叩く。「ジルカは、男だけど物腰が柔らかい。キーシュの宿屋の次男で、家業と別に何かやりたがってる」「もう一人は?」「オーリックは、トレネで小さい雑貨屋を一人でやってる老人だ。年は六十過ぎ。ちょっと頑固」 エリナは三つの名前を、じっと見た。「三人とも、人物像が違うね」「だろ。お前が言ってた『町の事情によって合う合わないがある』ってやつだろ? だから幅を持たせて候補を出した」「いい判断」「俺の判断っていうか、ゴードンさんに意見もらった」「ちゃんと相談したのが、いい判断」「言い方」 マリオが頬を膨らませて、エリナは小さく笑った。「順番は?」「近い順だと、ヴァロウ、トレネ、キーシュ。馬車で順に回れば、三日でひと回りできる」「じゃあ、明日出発