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18話 三つの町、三人の顔

last update publish date: 2026-08-14 18:00:11

 王都から戻って一週間が経った。

 ルシェムの作業場の改造は、ハンスとマリオを中心に順調に進んでいた。長屋の隣の空き家は、思っていたより造りがしっかりしていて、改造に必要な手間も予算も予定より少なくて済んだ。

 石鹸の生産ラインを置く部屋、薬草の乾燥と仕分けをする部屋、そして消毒液の蒸留器を据え付ける部屋。三つの作業区画を、薄い板で仕切る形にした。換気のために高い位置に小窓を増設し、水回りも改修した。

 完成までにあと十日ほど。

 その十日の間に、エリナはもう一つ大事なことを進めなければならなかった。

 現場責任者の候補を、決める。

「候補は、こんな感じだ」

 マリオが長屋の事務室で、紙を一枚広げた。

 炭で大きく書かれた名前が、三つ。

 マグダ・トーラン(ヴァロウ町)

 ジルカ・ベッセル(キーシュ町)

 オーリック・モア(トレネ町)

「全員、ルシェムで石鹸を使ってくれてる人と繋がりがあって、向こうの町でもそれなりに顔が広い。字も読めるし、計算もまあ何とかなる」

「人柄は?」

「マグダは肝っ玉母ちゃん。子持ちで、ヴァロウの女衆の中心にいる」

 マリオが指で名前を叩く。

「ジルカは、男だけど物腰が柔らかい。キーシュの宿屋の次男で、家業と別に何かやりたがってる」

「もう一人は?」

「オーリックは、トレネで小さい雑貨屋を一人でやってる老人だ。年は六十過ぎ。ちょっと頑固」

 エリナは三つの名前を、じっと見た。

「三人とも、人物像が違うね」

「だろ。お前が言ってた『町の事情によって合う合わないがある』ってやつだろ? だから幅を持たせて候補を出した」

「いい判断」

「俺の判断っていうか、ゴードンさんに意見もらった」

「ちゃんと相談したのが、いい判断」

「言い方」

 マリオが頬を膨らませて、エリナは小さく笑った。

「順番は?」

「近い順だと、ヴァロウ、トレネ、キーシュ。馬車で順に回れば、三日でひと回りできる」

「じゃあ、明日出発」

「早いな」

「鉄は熱いうちに」

「またそれ」

「便利な言葉だから」

 マリオが首を振りながら、明日の支度に取り掛かった。

 翌朝。

 まだ朝霧が残る時間に、エリナとマリオとゴードンの三人は馬車に乗り込んだ。

 ルナは留守番。母のセレーナと一緒に、作業場の改造の進み具合を見ておいてくれる。ルナが頷くとき、いつもより少しだけ早かった気がした。任されることを、彼女なりに受け止めているのだろう。

 馬車は街道を北上し、半日ほどでヴァロウに着いた。

ヴァロウ町

 ヴァロウは、ルシェムよりひと回り小さな町だった。

 石造りの家が少なく、木造の家が多い。中央には農産物を売る広場があり、その周りに肉屋、パン屋、雑貨屋が並ぶ。住民の多くは近隣の農地で働く人たちで、町全体に土と汗の匂いがあった。

 マグダ・トーランの家は、広場の北側にあった。

 二階建ての小さな家。一階の窓から、もうもうと湯気が立ち昇っている。洗濯か、夕食の仕込みか、あるいはその両方か。

 扉をノックすると、中から大きな声が返ってきた。

「入りな! 手が離せないから、勝手に入ってきな!」

 マリオが先に扉を開けた。

 台所からは、四十代半ばと思しき女性が、両手で大きな鍋をかき回しながら振り返った。背が高く、肩幅が広い。エプロンの裾がところどころ焦げている。子どもが二人、足元で何かの遊びをしていた。

 マグダの目が、エリナを見た。

 一瞬、固まる。

「……あんたが、噂のエリナちゃんかい?」

「はい」

「思ったよりちっこいねぇ!」

 マグダはガハハと笑った。声が大きい。

「ごめんね、こんな散らかってる時に。すぐ片付けるから、その辺座ってな」

「お構いなく」

「いやいや、客は座らせるもんだよ」

 マグダは手早く子どもたちを部屋の隅へ追いやり、テーブルの上の食器を片付けた。椅子を三脚並べ、湯気の立つお茶を出した。

「で?」

 マグダが向かいに座った。

「マルタから話は聞いてるよ。あの石鹸を、ヴァロウでも本格的に売りたいんだろ?」

「はい」

「で、誰かが現場で取り仕切る必要があると」

「そうです」

「あたしを名指しで来たのは、マルタの紹介かい?」

「マリオが推薦してくれて、その後にマルタさんにも確認しました」

「マリオから?」

 マグダがマリオを見た。マリオが少し頭を掻いた。

「前にうちの肉屋に来た時、マグダさんが他の人に石鹸の使い方を教えてるのを見て……」

「ああ、あの時の坊主かい」

「坊主って」

「坊主だろ、まだ。あんたも七つやそこらだろ」

「八つ」

「同じだよ」

 マグダがケラケラ笑った。

 エリナは、その笑い方を観察しながら考えていた。

 周囲が明るくなるタイプ。

 マグダがいる場には、自然と人が集まりそうだ。それは、現場責任者として大きな武器になる。

「具体的に何やってほしいのか、聞かせな」

 お茶を一口飲んで、マグダが切り出した。

「ヴァロウに、月に何度か石鹸と薬草薬を届けます。それを、ヴァロウの中で売る場所を整え、使い方を町の人に教え、売上と在庫を記録してほしい」

「字は書けるよ、一応」

「計算も?」

「足し算引き算くらいならね。掛け算は怪しい」

「掛け算は、こっちで仕組みを用意します。マグダさんがやるのは、数を数えて記録すること」

「ふん、なるほど」

 マグダがしばらく考え込むようにテーブルを見た。

「報酬は?」

「売上の一割を、現場経費として」

「悪くないね」

「ただし、責任もあります。使い方を間違えて誰かを傷つけたら、こちらにも責任が及ぶ。だから、町の人に教える時の説明は、こちらが用意した手順に沿ってもらいたい」

「マニュアル通りにってことかい?」

「そう」

「あたしは、それでいい」

 マグダがあっさり頷いた。

「自分流より、ちゃんとしたやり方で教えた方が、後々楽だ」

「即決ですか」

「あんたを見て、即決した」

「私を見て?」

「七つやそこらの子が、王宮まで行って戻ってきた話を、もうこの辺じゃみんな知ってるんだよ」

 マグダが少し声を低くした。

「そんな子が、ヴァロウみたいな田舎町にわざわざ足を運んできた。それだけで、十分信頼するに値する」

 エリナは少しだけ、視線を落とした。

 噂が、思っていたより早く広がっている。

 いいことでもあり、危ういことでもある。

 でも、今は素直に受け取った。

「ありがとうございます」

「お礼はまだ早いよ。やってから言いな」

 マグダがまた、ガハハと笑った。

トレネ町

 ヴァロウから半日。街道沿いのトレネに着いた頃には、すっかり日が傾いていた。

 トレネはヴァロウと違って、街道沿いの宿場町だった。馬車の往来が多く、夜になっても人の気配が消えない。宿屋と食堂、それから旅商人向けの雑貨屋が立ち並んでいる。

 オーリック・モアの店は、町の中心からは少し外れた路地にあった。

 看板はかすれていて、何の店かもひと目ではわからない。木の扉を押すと、ぎいっと重い音を立てて開いた。

 中には、薄暗い灯りの下、雑多な品物が所狭しと並んでいた。陶器、紐、蝋燭、古い金具、布。一見、何もかも雑然と置かれているように見えるが、よく見ると、種類ごとにきちんと分類されている。

 店の奥に、白髪の老人が一人、帳簿を広げていた。

「……何の用だ」

 顔も上げずに、低い声が言った。

「初めまして」

 エリナが声をかけた。

「アッシュフォード商会の——」

「アッシュフォード?」

 老人がそこで顔を上げた。

 眼鏡の奥の目が、鋭くエリナを見た。

「……ふん」

「ご存じですか」

「噂程度には」

 オーリックが、ぱたんと帳簿を閉じた。

「子どもが来るとは聞いていたが、本当に子どもだったか」

「はい」

「親はいないのか?」

「母は、ルシェムにおります」

「父は?」

「亡くなりました」

 オーリックの目が、ほんのわずかに動いた。

 哀れみではない。何かを察した目だった。

「……まあ、座れ」

 オーリックが、店の奥に粗末な椅子を二脚示した。

 エリナとマリオが座った。ゴードンは外で馬の世話をしている。

「で、用件は?」

 エリナは、ヴァロウでマグダに話したのとほぼ同じ内容を、もう一度説明した。

 オーリックは、最初から最後まで黙って聞いていた。

 話が終わると、しばらく腕を組んで天井を見ていた。

「条件は悪くない」

 ようやく口を開いた。

「だが、わしには合わん」

 エリナの背筋が、少しだけ伸びた。

「理由を、お聞きしても?」

「わしは、もう年だ。店を維持するだけで精一杯だ。新しい商品の責任者をやる体力はない」

「なるほど」

「だが——、適任者なら、紹介できる」

「適任者?」

「わしの息子の嫁の妹が、この町で薬草摘みをしている。シェナという。今は薬屋の手伝いだが、薬草の知識はわしより詳しい」

「年齢は?」

「二十二、三だったか。読み書きはできる。計算もそこそこ」

「お会いできますか」

「明日の朝、ここに呼んでおく」

 即決だった。

 マリオが横で目を丸くしている。

「ご紹介、ありがとうございます」

 エリナが頭を下げた。

「でも、なぜそこまでしてくださるんですか?」

 オーリックが、片眉を少し上げた。

「あんた、わしが何のために店をやっとると思う?」

「商売、ですよね」

「金儲けじゃない。もう食うには困っとらん。それでも店を続けてるのは、町の人間が困らんようにするためだ。蝋燭が切れた、紐が必要だ、そういう時に走り込める場所が、この町には必要だからな」

「……」

「あんたのやってることは、その延長だ」

 オーリックが目を細めた。

「石鹸で病気が減る、薬草で傷が治る。それが広がるのは、町にとっていいことだ。わしが直接関われんでも、繋ぐくらいはできる」

 エリナは深く頭を下げた。

「ありがとうございます」

「礼は、シェナを見てから言え。あれが向いてるかどうかは、あんたが判断することだ」

 頑固な老人。でも、頑固さの方向が、エリナたちと同じ向きだった。

 翌朝、店の前で待っていたのは、痩せた女性だった。

 長い髪を後ろで一つに束ね、簡素な布の服を着ている。手の甲には、何度も薬草を扱った人特有の、緑色のうっすらとした染みがあった。

「シェナです」

 声は静かで、だがしっかりしていた。

 エリナは、彼女と一時間ほど話した。

 薬草の知識を尋ねれば、ルナと変わらない正確さで答えが返ってきた。計算問題を出せば、迷わず正解を導いた。「町の人にどう薬草の使い方を説明するか」と聞けば、相手の年齢や性別によって言葉を変える例まで挙げてくれた。

 向いている。

 話していて、確信した。

 最後に、エリナは一つだけ聞いた。

「クロヴェル侯爵から、もしこの仕事を辞めるよう圧力がかかったら、どうしますか?」

 シェナの目が、少し見開かれた。

「……そんな話まで、あるんですか」

「ある可能性は、ゼロではないです」

 シェナはしばらく考え込んでから、ゆっくりと言った。

「私はこの町で生まれて、この町で育ちました。町の人が病気で苦しむのを、何度も見ました」

「……」

「貴族様が誰であろうと、町の人が助かるなら、私はやります」

 即答ではなかった。

 でも、考えてから出された答えには、即答以上の重みがあった。

 エリナは、深く頷いた。

「お願いします」

キーシュ町

 最後の町、キーシュは、ベルナのさらに南にあった。

 漁港に近い町で、海の匂いが街道まで届いていた。

 ジルカ・ベッセルの家は、町の宿屋の隣にある。彼の家業は宿屋だが、本人は次男で、店を継ぐ立場ではない。

 迎えに出てきたジルカは、二十代後半の細身の男だった。物腰が柔らかく、最初の挨拶の時から、ふっと相手の警戒を解くような微笑を浮かべる。

「いらっしゃい。お話、伺ってます」

 声がよく通る。低すぎず、高すぎず、聞き取りやすい音域だった。

 応接間に通され、エリナは三度目の説明を始めた。

 ジルカは熱心に聞いた。途中で何度かメモを取った。ヴァロウのマグダのような豪快さも、トレネのオーリックのような頑固さもない。だが、別の何かがあった。

 話が一段落したところで、ジルカが言った。

「正直に申し上げますと——」

 彼の口調が、わずかに改まった。

「私、この話を聞いた時に、二つのことを考えました」

「聞かせてください」

「一つは、町の役に立てるなら是非やりたい、ということ」

「もう一つは?」

「実家の宿屋から、ちゃんと独立できるかもしれない、ということです」

 エリナは少し首を傾げた。

「独立、ですか」

「私は次男なので、いずれ家を出る必要があります。でも、特に手に職があるわけではない」

 ジルカが少し苦笑した。

 「この仕事は、私にとって、独立の足場になり得ます。だから、町のためというより、自分のためにやりたい、という気持ちが半分あります」

 その正直さに、エリナは少しだけ意表をつかれた。

 マリオが横でじっと聞いている。

「……正直に言ってくれて、ありがとうございます」

「いえ、嘘をついて始めても、後で歪みが出ますから」

「同感です」

 エリナは少し考えてから、続けた。

「ジルカさん」

「はい」

「『町のため』と『自分のため』が一致している人の方が、私は信頼します」

「……と、言いますと」

「町のためだけ、と言う人は、いずれ疲弊します。自分のためだけ、と言う人は、いずれ町を裏切ります。両方ある人だけが、長く続けられます」

 ジルカが、少し驚いた顔をした。

 それから、ゆっくりと微笑んだ。

「……あなたの噂、本当だったんですね」

「噂、ですか」

「『七つの子どもとは思えない』という噂です」

「八つになりました」

 とマリオが反応する。

「失礼しました」

 エリナが謝罪する。

 ジルカが声を立てて笑った。

 その笑い方には、媚びがなかった。本当に面白いから笑う、というシンプルな笑い方だった。

「条件は、お受けします。ただし、一つだけお願いがあります」

「なんでしょう」

「最初の三ヶ月は、報酬を通常の半額にしてください」

 マリオが思わず横から口を挟んだ。

「半額?」

「はい。まだ私は実績がありません。半分の報酬で結果を出してから、通常額に戻してもらえれば、こちらも自信を持てますし、商会側も損をしません」

 エリナは、しばらくジルカを見つめた。

 自分から条件を厳しくしてくる人間は、信頼できる。

 前世でもよく見たパターンだった。

「わかりました。三ヶ月後に、お互いの実績と感触で見直しましょう」

「はい」

 二人は、テーブル越しに軽く手を合わせた。

 握手というほど大袈裟ではない、軽い触れ合い。

 でもそれが、契約の合図になった。

 三つの町を回り終え、馬車はルシェムへの帰路についた。

 夕方の街道。傾く太陽が、馬車の影を長く伸ばしていた。

「結果、三人決まったな」

 マリオが、御者台から振り返った。

「ヴァロウのマグダ、トレネのシェナ、キーシュのジルカ」

「三人とも、タイプが全然違う」

「だから、いい」

「いい?」

「同じタイプばかり集めても、組織は強くならない。マグダは人の輪を作るのが上手い。シェナは薬草の専門家として深く知ってる。ジルカは話術と独立心がある。三人合わせて、初めて一つの形になる」

「お前、なんでそんなこと知ってんの?」

「考えれば、わかること」

「考えても、俺はそこまで行かない」

「マリオは、別のところで考えてる」

「別のところ?」

「『この人と一緒にいたら、楽しいかどうか』」

 マリオが、ぐっと言葉に詰まった。

「……それ、悪い意味?」

「いい意味」

 エリナがあっさり答えた。

 「私が見落とすところを、マリオは最初に見抜く。マグダもジルカも、マリオが推薦してくれなかったら、私だけでは候補にも入らなかった」

「……そうか」

 マリオは少し照れたように頭を掻いて、前を向き直した。

 ゴードンが横でくすりと笑った。

「いい組み合わせですよ、お二人は」

「俺たちが?」

「ええ。バランスが取れている」

 馬車が、街道の小さな丘を越えた。

 遠くにルシェムの町並みが見え始めた。

 また、輪が一回り大きくなった。

 エリナは、頭の中で組織図を描き直した。

 中央にアッシュフォード商会の本拠地——ルシェム。

 その周りに、ヴァロウ、トレネ、キーシュ、ベルナ。

 そして遠く、王都に、フィオナとレイン。

 ベルナにはロッソ商会との取引網。

 学院にはレインを通じた連携。

 王宮には、薄いながらも国王とアルバとの線。

 一年前には、長屋の台所に石鹸の型を一つ並べていただけだった。

 それが、今、こんなにも広がっている。

 まだ、足りない。

 でも、確実に、進んでいる。

 ルシェムに着いた頃、空はすっかり暗くなっていた。

 長屋の前で、ルナが小さなランプを持って待っていた。

 馬車を見つけると、彼女は無言で手を一度だけ振った。

 いつもの、無口な歓迎。

「ただいま」

 エリナが馬車から降りて、ルナの隣に立った。

「……うん」

「変わったことは?」

「ない」

「そう」

「猫が、一匹、増えた」

「そう」

 他愛もない報告。

 でも、その他愛もない報告が、王宮から戻った夜と同じくらい、エリナの胸を温めた。

 ここが、自分の場所。

 どんなに輪が広がっても、戻ってくる場所は、ここで変わらない。

 その日の夜、エリナは机に向かい、また一通の手紙を書いた。

 宛先は、フィオナ。

 『新しい仲間が三人増えた。タイプが全然違う三人。すぐに紹介する。』

 書き終えて、ペンを置いた。

 窓の外、夜風が少しだけ強くなっていた。

 ランプの火が揺れた。

 一年の戦いは、また一歩、前へ進んだ。

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